ENo.0006　ケルヴィン・トーマス・シラドリ

　カメラ越しにも大気が汚れていることがよく分かった。
　汚れた空を掻い潜るように『イセノカミ』は翔ぶ。大気中に舞う塵や有害物質は、日によってこの濃さの差はあれど、人体に害を及ぼさないほど薄くなることはない。塗装はある程度、まとわりついてくる汚れを弾くようになっているが、飛んでいるうちに汚れが付着して、だんだんに曇っていく。
　こうして汚れるのが分かっていながら、この機体を白く塗るように指示しているのは、何のことはない、先祖代々の言い伝えを踏襲したものだった。ケルヴィン・トーマス・シラドリの祖先は、霧の向こうからやってきた〈さむらい〉であったという。さむらいは、死を覚悟した際には、あるいは死ぬ時には、白い衣装を身に着けているものなのだという。験担ぎでさえなく、少々縁起の悪い洒落っ気ではあったが、ケルヴィンはこの言い伝えを気に入っていた。わざわざ白い服を着るという畏まった習慣を、ではない。
　死ぬことを、常に考えている。自分も、かつての先祖たちも。さむらいたちは野を馳せ、グレムリン・テイマーは空を飛翔する。そのような違いはあるものの。
　死に向かって進んでいる。その速度が、ごく緩慢でも、確実に。
　こんなに高く飛んでいて、『緩慢に』死に向かっているなど、おかしな話ではあるが。
　──何にせよ、空を飛ぶことだ。
　操縦棺を衝撃が走り抜けたのは、ケルヴィンがそう考えた時だった。
　まだハンガーから飛び立って、そう時間は経っていない。『イセノカミ』の動きにも、目立った問題があるわけではなかった。
　索敵が戦場に『溜まる』まで、互いの銃弾はそう当たらないはずだが、それにかまけていささかぼうっとし過ぎていたかも知れない。もしくは、とんでもないラッキー・ショットか。
　ともあれ、『イセノカミ』はその一発でアンコントローラブルになった。姿勢を立て直そうとするのさえ無意味だと判断して、ケルヴィンは操縦桿からぱっと手を離した。カメラから目を背けて、衝撃に備える。瞼を閉じると、『イセノカミ』が真っ逆さまに、汚れた空を堕ちていく姿が浮かぶようだった。それでも、まだ終わりではない。
　画面には、ぽつんと一桁の数字が表示されている。ゼロからはまだ遠い。運命との距離──
　死にはしないなら、白装束も無意味かもしれない。

◇　◆　◇

「辞める、もう辞める」
　海水に叩きつけられた『イセノカミ』は、引き揚げられたあとでとりあえずの洗浄をされて、まあまあましな見てくれになっていた。
　酷いのはむろん、作業台に突っ伏して腐っているジョセフィンの方だろう。聞くも哀れな声を上げている。これは水を頭からかぶっても、そうそうしゃっきりしそうにはない。
「運が悪かっただけだ。そういう時もある」
　ケルヴィンは口から煙を吐き出し、気のない声で言った。本心だったが、ジョセフィンがそれを聞き分けよく耳に入れてくれるかと言えば、怪しいと思っていた。
　本心──『イセノカミ』はそもそも、紙のように脆いセッティングになっているのだ。少しかすっただけで墜ちるのは分かっていて、今日はたまたますぐに当たった。
　ばかげたアセンブルをしているのだ。ばかげたアセンブルをしているということはこの若い整備士も分かっていたはずだが、それでもそれがケルヴィンが腕を発揮すれば何とかなる〈ピーキーな〉セッティングで、成果を出せないのは自分の腕の悪さだと思っているのかもしれない。マーキーはいつもうんざりした顔をしながら、ぶつくさと用意をしてくれたものだったが。
　煙草をくわえてただふかし、ケルヴィンは首の後ろに手を触れる。
　海面に叩きつけられた痛みが、まだ全身に残っている。念のため、医者にかかるべきだろう。それは、『イセノカミ』が堕ちたことより、ジョセフィンがあけすけに落ち込んでいることより、ずっと憂鬱で億劫なことだ。実際に何を言われるかよりも、あの医者の言いそうなことが頭の中でぐるぐると回るのがよくない。こちらのことを誠心誠意考えているといった様子の、あの柔弱で憂鬱そうな顔だ。
「とにかく」
　肺に煙を吸い入れて吐き出すと、ケルヴィンは煙草の火を靴裏で潰した。その動きをするにも、わずかに違和感があった。
「お前に今、辞めてもらっちゃ困る。次の出撃まで時間がないんだ」
「出撃したって出撃しなくったってさあ……！」
　こうなってくると、駄々をこねている子供と変わらない。さすがに涙声ではなかったけれど、泣いてくれた方が多少はましだったかもしれない。泣き止むまで、とりあえずは放っておこうという踏ん切りがつく。
「ジョセフィン」
　ぴたりと、ジョセフィンの喚き声が止まった。呼んでから、この呼ばれ方は嫌だ、と彼女が言っていたことを思い出していた。とは言え、口から出てしまったものは仕方がない。ケルヴィンは気にせず、そのまま話を続けることにする。
「分かった、もう少し違ったアセンブルにしてやる。お前が安心するようなセッティングに」
　相手がむずがる子供なら、自分の口調はまったく、そのお子様のご機嫌を取る親の言葉遣いだった。自分の息子にさえ、そういう話し方をしたことはない。
　ジョセフィンは沈黙したまま、ゆるゆると顔を上げてこちらを見た。泣いてはいなかったが、こちらが何を言っているのか分からない、という顔をしていた。
　それまでと違う反応なら、それでいい。ケルヴィンは首を竦める。
「回路は確保してある。前回ふたつ潰したが、次のアセンブルには十分な数だ。
　あとで指示を出す。言われた通りの材料でパーツを作れ。設備に問題はないはずだ」
「は」
「俺はシャワーを浴びたら、医者に小言を言われてくる」
　グレムリンの方が人間よりも先に風呂に入っているな、と思いながら、ケルヴィンは立ち上がった。靴底が鉄板を叩く硬い音が、ハンガーの中に響き渡る。
「はあ～！？」
　ジョセフィンの裏返った声はすでに聞き慣れ始めている。ふたたび上がり始めた喚き声は、ケルヴィンへの罵倒に溢れていたので、聞かなかったことにした。防塵フィルタを鼻まで引き上げて、扉の横のスイッチを押す。
　エアシャワーの調子はまだ直っていなかった。

　エアシャワーの調子は相変わらずだ。少し前から──それが一週間前からだったか、一月前からだったかははっきりとは思い出せないが──時折いやな音がして、数秒止まることがある。機能にはまだ問題がなく、役割を果たしてくれないということはない。
　毎日食うや食わずやで生活しているヴォイド・テイマーであるから、こんな場所も修理する余裕がない、というわけではない。単に修理の依頼をしていないからで、していない理由はこのハンガーを利用する二人の人間それぞれで違っている。ここに籠もりきりになっている整備士は若くて余裕がなく、エアシャワーの不調にまで意識を割いていられない。かたやグレムリン・テイマーは、この先にある自分の機体に乗って空を飛ぶことしか考えていない。
　そういうわけで、それなりの期間このエアシャワーはこの状態のまま放っておかれていた。もしかすると、壊れるまではこのままかもしれない。
　もっとも、エアシャワーの状態が完璧であっても、ハンガーの中が完全なクリーンルームになるわけではない。入る際に多少の埃を吹き飛ばすのは、グレムリンが過敏な精密機械だからではなく、外に埃が多すぎるからだ。身体を蝕み、雨にくっついて虹色に輝かせる有害な塵は虚空領域に住むものには当たり前のもので、まとわりつくそれを常に払う必要があった。酒を飲んだ後に水を飲めば、二日酔いは少しはましになるといったようなことで、儚い抵抗と言えばそうだ。
　『イセノカミ』のアセンブルはおおむね終わっていて、後は細かい調整を必要とするばかりに見えた。
　TsCの嫌がらせのおかげでパーツはまだ量産のものや質の悪いパーツが目立つが、数週前よりは少しはましになっている。
　その横でジョセフィンが目下夢中になっているのは、積めなくなった古いパーツの解体だ。『イセノカミ』につなげるソケットから引き抜かれたパーツから、回路を回収しようと試みている──ヴォイド・テイマーたちは相変わらずマーケットから締め出されてはいるけれども、これでグレイヴ・ネットに流れているデータからパーツを組み上げることは可能になる。
　むしろマーケットを締めているテイマーズ・ケイジの方が、目下未識別機動体と戦っているヴォイド・テイマーたちの作製したパーツデータを手に入れられずに首が締まっているのではないか、とも思われるほどだった……もちろん、マーケットと違ってこちらは封鎖されているわけではないから、何かしらの方法で手に入れられはするだろうけれども。御大層な自尊心がまた傷つくのではないか、と心配する気持ちにもなる。
　今のところ、まつろわぬ〈ならず者〉たちはうまくやりおおせていた。正確に言えば、そのならず者のなかでも、ヴルッフに召集されて未識別機動体と戦い始めた連中。
　防塵フィルタを顎の下まで引っ張って下ろすと、ケルヴィンはおのれのグレムリンの正面、トレッドプレートの上に座り込んでポケットの中の煙草をまさぐり始めた。低い空調の音が、ハンガーの中で響き続けている。
　死への到達が異常に緩やかな者たち。グレムリンの声を聴く者たち。
　ヴルッフは、集めたテイマーのことをそのように言っていた。
　いったいそんなことを何者から聞いたのか、どうやって調べたのか。分からないが、まだヴォイド・テイマーのなかに死人は出ていない。未識別機動体と交戦したテイマーズ・ケイジの部隊は壊滅状態だったというから、戦果も挙げている。とは言え、眉に唾をつけて聞くような話だとケルヴィンは考えている。死人の差とて、叩き込まれた作戦や戦い方の違いだという風に捉えていた。
　TsCのテイマーたちがどのような命令を受けていたかは知らないが、得体の知れない機体に対して退けない戦いを強いられたのであれば、それは考え得る中でも優秀な、効率的な死人の出しかただ。実際、戦線を崩壊させないために死守めいた位置で陣取っていたテイマーもいた。恐らく、撃墜のされ方もへたくそな連中だったろう。これは確かに誇ってもいい。前の出撃で、『イセノカミ』は海に向かって真っ逆さまに落ちることとなったけれど、こうして無事に帰還している。次も生きて帰るという確証はないが、自信はあった。
　とまれ──
　ヴルッフの目論みは、現状上手くいっているというわけだ。ケルヴィンたちが真実、ほかの連中よりもゆっくりと死に向かっているかはともかくとして。
　やに下がり、上機嫌そうなヴルッフの、聞き心地の良いとは言えない笑い声を思い返して、ケルヴィンは煙を口から吐き出した。
「次は、もっと上手くやるよ」
　回路を取り出している真っ最中のジョセフィンの声は、硬かった。まだ慣れない作業に緊張しているのかもしれないし、ケルヴィンがハンガーに入ってきたから緊張しているのかもしれない。何にせよ通信越しで話すよりも、ずいぶん気負った声を出している。あるいは、『イセノカミ』が撃墜されたことについて、メカニックとして責任を感じているのかもしれなかった。
　──だとするなら、ありがたく真面目な整備士を持ったな。
　それは別に、肯定的な感想というわけでもない。ケルヴィンはどう答えようか迷いながら、パーツを覗き込む彼女の、つなぎに包まれた尻を眺める。
「『セポルトゥーラ』はさ」
　そうするうちに、背を伸ばしてジョセフィンはこちらを振り返った。それは僚機の機体の名前だった。
　グレムリン・テイマーは依頼主との契約とは別に、個人間でそのような契約関係を結ぶことがある。慣例として僚機は基本的に二機で登録され、同じ戦場に配置されるようになる。理由はさまざまだ。生き残る可能性を上げるもの、より稼げるように互いに役割を分かち合うもの、あるいはもう少し心理的な理由──
　ケルヴィンが僚機を求めたのは打算的な理由だった。自分かどちらか、高い戦果を挙げれば、より高い場所で飛べるからだ。
　虚空領域は滅びかけの世界。穢れた海のただなかに建てられた塔は、人間たちの拠り所であり、滅びの象徴でもある。
　未識別機動体はこのタワーめがけて突っ込んでくる。上層に住む者たちは、軍や企業をはじめとする権勢を誇るものたち。高い戦果を挙げたものは、タワーの上層の戦場を護るように配置される。僚機の契約を結んでいれば、自分か相手、どちらか一方が戦果を挙げさえすれば上へ行ける。
　より高く飛びたいと思うなら、戦果を挙げることだ。
　どうせ海に叩きつけられるなら、より高い空からがいい。
　『セポルトゥーラ』はそういった意味では、なかなか悪くなかった。テイマーは子供だが、やる気がないわけではない。
「あっちは、四機落としたんだろ」
　ただ、ジョセフィンの考えは違うようだ。ふてくされたような声音だった。
　ケルヴィンは、TsCの通信士が送ってきた、慌てふためいたメッセージを思い出している。商売敵があれぐらい可愛げがあるのはいいものだが、ビジネス上のパートナーにしたいかと言えば話は別だ。
　鉄板で煙草の火を磨り潰して、ケルヴィンはジョセフィンと目を合わせた。居心地の悪そうな、こちらの優しい言葉を待っているような顔をしている。あるいは、ばっさり切ってくれれば楽になるのに、というような。億劫になるような目つき。
　二本目の煙草を箱から取り出し、視線を切った。何とでも答えようがあるし、彼女が機嫌を損ねても構わない程度にも思えたが、その想像されるやり取り自体が面倒に感じた。……どう答えようが、『セポルトゥーラ』よりも『イセノカミ』の方が撃墜数が多かったという事実は変わらないからだ。変わらない事実に滅入っている若造を慰める役割は請け負いたくはなかった。そういうものを引き受けるぐらいなら、もっと上手くやっている。
　立ち上がり、煙草に火を着けないままフィルタを鼻まで引き上げる。外に出るなら、煙草は部屋に戻るまでお預けだ。
「ケルヴィン」
　追いすがるような声に背を向けて、ケルヴィンは煙草を胸ポケットにしまった。
「回路は取り出せそうか」
「……使い物にするには時間がかかるけど、問題ない。
　ただ、次の出撃に使うパーツには間に合わない。これは、毎回そんなもん。
　ねえ。『イセノカミ』のアセンブル、確認しなくていいの」
「見た目、思った通りにはなってる。
　あとで乗って確かめる。デコイの準備をしておいてくれ」
　分かった、とジョセフィンから返事が来るまでには、若干の間があった。ケルヴィンはその間に、扉の横のスイッチを押している。振り返ると、ジョセフィンはずいぶんと納得がいかないような顔をしていた。
「お前はいい整備士だよ」
「はあ！？　なんだそれ──」
　裏返った声を無視して、ケルヴィンは開いた扉の中へ入った。
　ブザーとともに扉が閉まると、ジョセフィンの声はぶつりと聞こえなくなった。

　たまに、海に向かって落ちていく夢を見る。
　すれ違いざまにブレードで切り付けられたリ、電撃でしたたかに打ち据えられたリ、なにか弾がぶち当たったり、あるいは、それこそ霊障《グレムリンズ・ギフト》で急に機体が動かなくなる。
　夢に過ぎないと切り捨てるには現実感がある。実際、そのどれかを喰らってアンコントローラブルになり、海面へ叩きつけられたことはあった気がする──が、現実に着水した時の記憶のどれかが再生されているわけではない。どこまでもどこまでも、遠い海面に向かって落ちていく時、ケルヴィンは濃厚に、おのれの死の匂いを嗅ぎ取っている。操縦桿をぱっと手放して、身を任せて、もしかしたらそうと分からなかったないだけで、とっくに海底へ向かって沈んでいる最中かもしれない。その、うそ寒い浮遊感──
　そして目が覚める。
　だからそれは、過去の情景が夢の中に再生されているわけではなく、未来への予感だろう。予感という言葉遣いをするのもおかしな話で、確信に近い。
　いつかそうなる。
　いずれそうなる。
　その時を待っている。
　その日が遠くなるよう、足掻いているという感覚は微塵もない。
　煙草の臭いが染みついた毛布をはねのけて、ケルヴィンは暗い部屋の中で床の上に足を下ろした。嫌な汗をかいているということもなければ、心臓が早鐘のように鳴り響いているということもない。喉が渇いているのは、単なる二日酔いだ。ベッドサイドに置かれたグラスには、飲み切れなかったウイスキーがまだ残っている。頭痛も。
　冷蔵庫からペットボトルを取り出しながら、いい傾向ではないね、と頭の中でつぶやく。
　ケルヴィンの言葉ではない。知り合いの医者がしかめ面しい顔をしてため息交じりに言った、その口ぶりを真似たものだった。眼鏡を押し上げて、ため息をつくように言うのだ。──恐怖心をまったく失ってしまうのは、いい傾向ではない。恐れによって判断を誤るよりも、無謀な行動によって命を落とすほうが多い。もっとも、失われてしまった恐怖を上手く思い出すのは、難しいかもしれないけれど。
　死んでもいいと考えていやしないか。
　その問いにケルヴィンは答えなかった。どっちにしても死ぬ時には死ぬのだと、そういうような言葉遣いをした。面倒くさいことになると思ったのだ。死を望んでいるわけではないが、死んでも構わない程度の気持ちはある。それをどう言えばそれ以上の小言を止められるか見当がつかなかったからだ。
　医者が言いそうなことは、言われなくても思いついた。何という名前だったか。顔よりも、眼鏡のフレームの形と、ウェーブがかった色気づいた茶髪の方がいつだって目につくのだ……グレムリンに乗っている時は興奮して、ここで死んでも構わないという気持ちになるかもしれない。でも、死にきれなくって生活に支障が出る方がずっと多いんだ。身体破断を喰らったテイマーのことを知っているだろう。あれもまた、運命なんだよ。その運命から避けるための努力はすべきだし、危機感を持つべきだ。
　しかし、興奮という言葉はそぐわない。死を待ち受ける気持ちにはそうした熱はない。
　いずれ必ず訪れる死に諦観し、無気力になったり自棄になったりしているわけでもない。
　覚悟というほど、劇的なものでもなかった。ただ、自分をそういう風に加工して、調整して、運命というものを受け容れるようにしているには違いない。だからその手触りを、繰り返し確かめている。逃すまいとして、掴んでいる。それから、その手触りを失わせるものを遠ざけ始めている。それが悪い傾向と言われれば、そうかもしれない。
　狭い部屋を、端末の光が照らしていた。
　ケルヴィンは通知画面に音声メッセージが入っている旨が表示されているのを確認し、再生ボタンを押して、声が聞こえる前に止める。いつものことだった。メッセージを開封したかどうかは相手に伝わるから、そうして聞くふりだけをしている。ふりをしていることも、恐らく向こうには伝わっているだろう。
　悪い傾向。自分で望んで体の周りにまとわりつかせたものを、今になって鬱陶しがっている。すべてをグレムリンに乗ることに振り切って、それだけの自分でいさせてくれ、という気分になる。
　もちろん、それが欺瞞であることをケルヴィンは承知していた。億劫がってはねのけるものを、分かりやすく選んでいるからだ。
「ダスト・グレムリンにさえ乗ってりゃあな……」
　そんなものは、言い訳に過ぎない。
　通話の着信が入ったのを見て、ケルヴィンはペットボトルを置き、代わりに煙草を拾い上げた。口に咥えて、応答する。
　スタンドに端末を置いて離すと、画面の中のジョセフィンの顔があからさまに歪むのが分かった。
「どうだ」
《最悪。あんたと同じぐらい。服着ろよ》
「今起きたところだ。カメラを切りゃいい」
　煙草に火を着け、ベッドに腰を下ろす。たぶん、言葉通りにしただろう。ジョセフィンの顔は画面から消えていないが、視線がこちらに合わなくなった。
《次から、最初からそうする。
　ああ、それで……やっぱり、マーケットは全然ダメ。TsCががっちり押さえてて、こっちじゃどうしようもない、最悪。
　まともにアセンブル組めないよ、こんなんじゃ》
　口から煙を吐き出して、そうだろうな、とケルヴィンは答えた。
　テイマーズ・ケイジは感心すべき熱心さでもって、ヴォイド・テイマーたちへの嫌がらせを始めていた。
　グレイヴネットの盟主ヴルッフが、金に飽かして傭兵を大量に雇い始めたのは先日のことだ。
　未確認機体への応戦にヴォイド・テイマーの力を借りるというのは、まったく的外れな考え方ではない。当然のことだった。
　虚空領域を分かつ三大勢力、それを支配するテイマーズ・ケイジ。『未確認機体』とやらは唐突に現れ、これらを相手取って大立ち回りを演じ続けているという。泡を食ったTsCがヴルッフに協力を求めた。TsCが何を期待していたのかは知らないが、未確認機体とやらを何とかしようとするのなら、三大勢力とTsCに属さない連中を使うのはごく自然だろう。彼らには何もできなかったのだから。
　運命から逃れ得る唯一の──ダスト・グレムリンを抱えているのに。それが、いたくお気に召さなかったらしい。
《何笑ってんのさ。……笑ってるだろ？》
　ケルヴィンは首を竦める。TsCの通信士から送られてきた、みょうに鼻息の荒い通信を思い出していた。
　感嘆してしまったのだ。この世界を支配する連中が、食いつめものの、ごろつきに過ぎないヴォイド・テイマーたちにそこまで情熱的に絡んでくるなどとは、思いもよらないことだった。驚くべきことだ。
　グレムリンはかつて世界を破壊しかけた兵器。
　個人の手にあってよいものではない。テイマーズ・ケイジによってコントロールされるべきものだ。
　まったく、その通りだった。この滅びかけの世界を何とか繋ぎとめようとする、より良い形に保とうとしている連中からすれば、ヴォイド・テイマーなど害虫のようなものだろう。
　害虫に自分たちの命運が託されれば、理性を失いもする。
　どう動くか分からない虫けらに、乗る船が沈むかどうかが任せられるというのだ。
「連中にも、使命感だの自負心だの、可愛いところがあるもんだな」
《可愛くねェ～よ。超クソだよ。回路がたくさんありゃ何とかなるけどさ……》
　灰を落として、ケルヴィンは天井を仰いだ。
　グレムリンのソケットに差し込むパーツは、量産でない性能のいいものであればみな、特殊な回路が使われている。TsCにかけられた制限がなければマーケットでそうしたパーツを仕入れられるのだが、それは叶わない。
　だが、回路さえあれば。それはジョセフィンの言う通りだ。パーツの設計書は、いくらでも出回っている。回路さえあれば、パーツを都合することはできる。
　そして、回路が手に入るあて自体はあった。……それは、天から降ってくる……
「万事、ないものねだりだ。
　いつ落ちてくるか分からん回路を待つのもいいが、今はありものでの、できるだけのアセンブルになる」
《あんたの整備士なら上手くできるってこと？》
「だと、助かるな」
　ジョセフィンが聞こえよがしにわざとらしくため息をつかなくても、こちらからは彼女が髪を掻きむしっているのがよく見えた。
　荷が重いと感じているだろうし、自分のキャリアや技術にからめてできない言い訳を頭の中で並べ立てているかもしれない。
　ただ、その方がずっといい。これは本来、誰にとっても荷の重い仕事だ。マーキーがいたら、もっと文句たらたらだろう。できないと諦めて匙を投げる前に、それが判断できないうちに、とりあえずはがむしゃらにやってもらう。必死になっておいてもらった方がいい。
「お前は俺の命綱なんだぜ」
《いちいちクサいんだよな、おっさん……》
「どれぐらいかかる」
《夜までにはいったん。でもさ、》
「後で行く」
　ケルヴィンは言って、通話を切った。ジョセフィンはかけ直して来なかった。
　空調の低い音だけが耳に届く。
　耳鳴りがする。
　灰皿ですっかり短くなった煙草を潰し、ケルヴィンは狭い部屋の中を見回した。
　グレムリンのコックピットは棺に喩えられる。この狭い部屋も棺と見紛うばかりに狭い。それに、ケルヴィンの死に場所になる可能性はあった。
　虚空領域の人間みな、運命の到達する場所へ向けて前進し続けている。どこでそこへ至るかは分からないが、あらかじめ棺に入っていた方が、マナーは良い。
　ただ、その前にシャワーを浴びる必要はある。大事なことだ。
　そうやって、まとわりつかせておきたいものを選び続けている。

　ケルヴィン・トーマス・シラドリの祖先は、霧の向こうからやってきた〈さむらい〉と呼ばれる者たちであったという。
　刀を携えて主君に仕える勇ましい戦士であったこと。もはや存在しない霧の中からやってきたものたちの末裔であるということ。そのどちらも、たいへんに魅力的な物語だった。ただし、この虚空領域から霧が消え去ったのはもう千年も前の話で、事実であるかも定かではない。本当であったとしても、千年ものあいだそんなアイデンティティにしがみついてきたおのれの血筋を情けなく思いもする。とは言え、ケルヴィンもなかなか格好がつくとは考えていた。〈さむらい〉の子孫。いいじゃないか。少なくとも、ダスト・グレムリンの搭乗試験に落ちて、ヴォイド・テイマーとなった食いつめものと名乗るよりはずっとよさそうに聞こえる。
　テイマーズ・ケイジ(TsC)から離れ、フリーの傭兵としてやっていけるグレムリン・テイマーはほんのひと握りと言われている。ケルヴィンは間違いなくそのひとりではあったが、胸を張れる身分ではないことは重々承知していた。安全な檻に護られていない野良犬のできる仕事というのは、多くの場合ろくなものではない。周囲から一目置かれたそれなりのグレムリン・テイマーであると認められはするものの、それでなにか便宜が得られるわけではない。明日死んでもだれも困らない、気にもされない存在だし、この滅びかけの虚空領域を支配するTsCからの覚えもめでたくはない……だから、そこまでして、ヴォイド・テイマーとか呼ばれてグレムリンにしがみついている連中というのは、どうしようもない奴ばかりだ。もちろん、自分も。毎日飛んで稼げる金は、愛機のパーツをアップデートして維持していくには心許ないが、人間を何人か食わせていくためにはじゅうぶんに余っている。グレムリンを降りさえすれば、機体に充てている金はぜんぶ人間のものになって、明日死ぬかもなどという不安からはひとまず、解き放たれる。そういう余生の選択肢はいつでもあった。ケルヴィンの頭の片隅でもずっと、デスクトップに出てくるアラートのポップアップみたいに、出ては消えを繰り返していた。ただ、ケルヴィンはその何とはなしにぼんやりと浮かぶその考えをいつもすぐ打ち消していたし、ヴォイド・テイマーの中にそんな道を選ぶ奴はほとんどいないに違いなかった。一回グレムリンに乗ったものが、そうそう降りるはずがないのだ……
　降りるはずがない。
　ケルヴィンは唇を曲げてその文句を頭の中で繰り返すと、がちがちにこわばり始めていた左手を操縦レバーから一度離し、ホルダーに置かれたボトルへ伸ばした。柔らかいプラスチックの栓を片手だけで外しながら、外の映像へ目を向ける。
　雨が降っていた。見慣れた、見つめていると目がちかちかするような虹色の雨のおかげで、もう何十分も変わり映えのしない景色が続いている。こういう時、自分の体感覚ではなく、じっと計器に目を向けて数字をかたく信じなければならないことを、ケルヴィンは頭に叩き込んでいる。大気中の有害物質がたっぷりくっついた極彩色の雨は、容易にグレムリン・テイマーの空間認識を狂わせる。熟練のテイマーでさえ、気が付けば海へ向けてまっさかさまに突っ込んでいるということがあった。そういうのは、空ではありふれている。もしくは、ソケットに差し込んだパーツが急に原因不明の不具合を起こしてピクリとも動かなくなる、恐るべき霊障《グレムリンズ・ギフト》……これもよくある現象で、そしてどちらも致命的になり得る事故だった。撃墜されるでなく汚れた海に落っこちて死んだ奴を何人も知っている……ぬるい水でからからになった喉をうるおして、ケルヴィンはホルダーにボトルを戻した。操縦レバーを握り直す。
　限界まで飛んだ果てではなく、敵と戦った挙句でなく、ちょっとした錯覚やエラーで、しかも何でもない慣らし運転や訓練の最中に死ぬような、そういう死に納得しているような奴らが、企業から放り出されてもまだグレムリンに乗り続けている。そんな連中が、死んでもないのにシートから尻を持ち上げて何でもない生活に戻っていくはずはなかった。戻っていったところで、いずれ運命に到達することは避けられないのだから。
《調子はどうだい、ケルヴィン……》
　通信機の向こうで整備士がむっとした顔になったのが、映像をオフ(VOICE ONLY)にしていても分かった。
　そのおずおずとした、自身のなさそうな声音で紡がれた質問に、ケルヴィンがすぐに馬鹿笑いで返したからだった。今度は右手をレバーから離してひらひらと振り、計器の数値にあらためて目を向ける。雨の中を飛ぶ『イセノカミ』の調子は、良くもないが悪くもないと言ったところだ。これがマーキー相手だったら、こんなセッティングは最悪だとか言って怒鳴ってやったものだが、この若い女はたぶん、それでもうめげてしまう。きっと、最初ぐらいは優しくしてやった方がいいだろう。
「お前が整備したグレムリンだぜ、数字はそっちにも出てるはずだが、どうなんだ？」
　我ながら、なかなか気色の悪い猫撫で声だ。
　少しだけ沈黙があった。
《それは……もちろん、見えてるよ。私からすると、悪くないんじゃないかって思うけど》
「けど？」
《あんたはヴォイド・テイマーで、つまりベテランで……だから、計器に出ないような微妙な……あんたに合ったセッティング、みたいなのがあるんじゃないかってさ。
　希望があったら次に反映するから、……ねえ、私そんなにおかしいこと言ってる？》
　問いに、ケルヴィンは操縦棺が震えるほどの爆笑をようやく引っ込めた。それから、
「気持ちは分かるよ」
　と言った。
「確かに、これで戦場に出たかあないな。ただ、ヴォイド・テイマーってのはいつだってそんなもんだ。
　整備士には逃げられるし、パーツにも贅沢言っちゃいられない。それでも、生体を売っ払わないと暮らしていけない連中よかましだが」
《そんで、私みたいな実績のない小娘を雇わなきゃいけないってわけ》
「そういうことだ。へそを曲げるなよ」
　長いこと連れ添ったマーキーがテイマーズ・ケイジ傘下の企業に戻ると言い出した時には、ケルヴィンもさすがにしばらく深酒をしたし、愚痴を喚き散らしもした。ただ、間違いなくそちらの方が賢い選択であることは分かっていた。TsCに見限られてしょぼくれているしみったれたヴォイド・テイマーの、何とかかき集めたパーツで体裁を整えたグレムリンのお守りをするよりは、企業つきの埃がないぴかぴかのハンガーで整備をやった方がいいに決まっている。真面目に仕事をしていれば、いつかダスト・グレムリンだって弄れるかもしれないからだ。ダスト・グレムリンを……
「お前が小娘なのは今だけだ、ジョセフィン」
　考えを振り払って、ケルヴィンは計器の値に集中することに努めた。マイクへ向かって優しく語りかけながら、レバーをゆっくりと傾ける。『イセノカミ』の調子は、良くも悪くもない。つまり最悪だが、いくら飛ばしても変わり映えはしないだろう。それが分かっただけでじゅうぶんだった。ドローンを出すまでもない。間違っても、いい結果にはならない。
《すぐにババアになるから？》
　新しい我が整備士は、気を回した甲斐があってか落ち込むことなく完全にむくれていた。そういえば、年寄りみたいで嫌だから、ファーストネームでは呼ぶなと、会ったばかりの頃に言っていた気がするな。ケルヴィンは苦笑する。
「違う。俺の整備士だからだ。つまり、分かるか？」
《……分かったよ、数字を見る》
「いい子だ」
《チッ……》
　スピーカーから聞こえてきた舌打ちに、ますます頬が緩むのを抑えられなかった。こっちのことを、鬱陶しいセクハラ親父だと思っているのかもしれなかった。実際、鬱陶しいセクハラ親父なのだ……自分の息子と大差ない若い女に、ずいぶん説教臭い気分になっている。
「お前が知りたい感覚の話は、帰ってからしてやるさ。
　それと数字を突き合わせて、出撃までに『イセノカミ』をもうちょっと良くしてくれれば、今回はそれでいい。ダスト・グレムリンじゃないのは悪いがね」
《……あんた、信じてんの？》
　画面上には、グレムリンの状態を示すごちゃごちゃした数値が並んでいる。そこからひとつ離れて、ぽつんと一桁の数字が表示されていた。
　虚空領域に住むものならだれでも持っている、運命との距離だった。
「さあね、どうかな」
《でも、乗りたいんだろう。ダスト・グレムリン。
　疑わしいと思うけどな、私。この世界が呪われているのに、どうやって運命から逃げられるって言うのさ》
「そのうち分かるだろう。次の仕事の前に、運命に辿り着かなければ」
　運命到達点。
　虚空領域に住むものたちはすべて、運命との距離から逃れることはできない。ダスト・グレムリンを除いては。
　通信機の向こうからは、風の唸るような低い音が聞こえ始めている。『イセノカミ』の数字とにらめっこしていたジョセフィンが、律儀に出迎えの準備を始めたのだろう。彼女は万事、手探りだ。ねじの締め方ぐらいは知っているが、それ以外のあらゆることを知らない。ねじを締められるだけの女と、これからこの『イセノカミ』の面倒をみて、飛ばなければならない。たとえば、こんな雨の中を。
　何にせよ、仕事だ。グレムリンで飛ぶためには、飛び続けるためには、それが必要だった。グレムリンに一度乗り込めば、あとはそのことしか考えられない……
　ケルヴィンは唇をもごもごと動かして、通信機のボリュームを下げた。煙草が喫いたくなっていた。