ENo.0099　刺し継ぐ針水晶のレンゼ

「全てを探しに行こうよ」
「無限の全てを」
「そして、その時を進めよう」
「無限の全ての果てに……」
「全ての到達は来る」
「さぁ……全てを探しに行こうよ！！」


―――――

　世界が割れる。頭が掻き回される。
　通信が鳴り響く。“未識別機動体”の報告。
　世界の再生？ 永劫領域？ この世界は、何度繰り返している？ 僕は何をすればいい？

　……嗚呼、心がぐちゃぐちゃだ。

　ダスト・グレムリンとTsCは、きっとこの世界をやり直そうとしている。
　……そうすれば、僕は姉さんと一緒に居られるだろうか。置いていかれずに、済むのだろうか。
　“全て”。無限の“全て”。……それはきっと、僕にとって、姉さんのことだ。

　機械音声がコックピットに鳴り響く。
　錆びついた世界は元の姿を取り戻し、動乱と共に海を割ろうとしている。
　僕の乗る機体は、あの錆の世界と同じだ。硬く、濁り、輝きは失われて、無垢も優しさも縁がない。
　
　ただ、ひとつだけ。
　
　錆のない“これ”は、姉さんと同じだけ、自由だ。
　
「……飛ぼう。……たぶん、そこにあるはずだから」

　コンソールを叩くと、機体は空へ舞った。

　世界の果て。　それはなんだろう。

　世界の果て。　そこには何が有るんだろう。

　世界の果て。　そこが、僕が辿り着くべき場所なのだろうか。

　大きな大きな少女が、波を立てて僕へ声をかける。
　あれほど大きければ、手を伸ばせば空にでも届きそうで、羨ましいと思った。

　ほんとうは、言われたとおり、何もかも投げ出して、昼寝をしているほうがいいのかもしれない。こうして悩んで、苦しんで、泣きそうになっているよりは、よほど無に近しい。

　それでも、何かをせずにはいられない。僕はまだ生身で、機械の部分は何一つない。
　いっそのこと挿げ替えて、何もなくなってしまえばいいのに。
　そうすれば、姉さんと一緒。何も考えずに、一緒にいられる。

　空が青い。MAILが届く。“もうすぐ戻れるかもしれない”と誰かが言う。

　東の果てから、何かが呼んでいる。


　何を探せばいいのだろう。姉さんの思い出も、姉さん自身も、ここにあるはずなのに、空虚に思える。
　陽は反射して僕の目を灼く。少女の影がそれを覆い隠して、ほんの少しだけ楽にしてくれる。

　…………何もかも、考えるのが嫌になる。教えも心も感情も思考も、全てが嫌になる。


　……僕は、あの戦場に戻って、空を飛べればそれでいい。
　姉さんと共にいれれば、それで。


　……錆びついた機体が、戦闘シュミレーションの計算を始めた。
　僕は一つ咳をして、画面へ向き直った。

　乾いた砂の群れ。身を焦がす陽射し。砂埃と、ただ青いだけの海。はぁ、と息を吐くと、じゃり、と嫌な感覚が口の中に舞い込んだ。
　渇きの海。ここは、南の果てなのだという。襤褸を纏った女の人が、僕を見ずにつぶやいていた。

――――

「私はもう辿り着いたの。この場所に。誰もかれも、辿り着く場所がある」

「たまたま私はこの場所ってわけ。砂しかないけど、いいところよ」

――――

　……僕は水なんて持っていなかったから、すみません、と謝った。その人は、“残念”と、さほど残念ではなさそうにつぶやいて、砂の城を作るのに戻った。
　固められた砂は、風に吹かれて崩れて、彼女は、その度にまた砂を塗り固めていた。彼女の周りには、そのように風化した、かつて砂の城だったものが幾つも積まれているように見えた。

　やがて崩れてしまう砂の城を作ることに、意味はあるのか。そう聞こうとしたけれど、その人の横顔はとても真剣で、実際に言葉にすることは出来なかった。

　なにより、僕も似たようなものだと、ほんのすこしだけ思ったから。


　辿り着く場所。僕に辿り着く場所があるとしたら、どこなのだろう。
　空から風が吹いて、体を撫ぜる。滲み出た汗を乾かして、涼を得られる代わりに、喉が張り付いたように渇き、咳き込んだ。

　……空はそこにあって、陽射しが僕らを照らしている。眩しくて、手を翳す。

　……ここは、どうしようもなく、渇く。呼吸がしづらい。息が続かない。
　きっと、僕が辿り着く場所はここではないんだろう。


　はぁ、ともう一度大きく息を吐いて、東へ進路を切った。

　シミュレートなんて、意味がない。……はやく、呼吸をしなければ。

　《対流思念》。差出人不明のMAILによれば、僕らが元の世界に戻るには、それを集めなくてはならないらしい。
　それは、つまり……姉さんが翼を、僕が姉さんを取り戻すためには、この世界を回らなくてはならないということだ。
　ぎぃ、と不愉快な鉄の擦れる音がする。錆びついて変わり果てた鉄屑《ねえさん》も、この旅には着いてくることになるのだろう。
　あの、カザミサという人と別れてから、ずっと頭がぐらぐらしている。思考や価値や心が、潮風に浚われて、何度も掻き回されて、自分まで削れていくようだ。
　欲望、嫌悪、絶望、苦悩。全部をからっぽにしたくて息を吐いても、喉に掛かって咳き込んでしまう。
　こんなに苦しいのなら、元からこの気持ちなんてなければよかった。……僕は今このときになって、初めて院長先生が言っていた教義を、きちんと実感出来た気がする。

　……目の前には、海が広がっている。錆びついて動かない船舶とは反対に、何も邪魔するものの居ないこの世界で、盛んに波を立てている。
　門番のように一人ぽつんと立っていたひとは僕へ言った。

『でも、私には分かる気がする。こんな世界でも、誰かの夢がどこかで叶っているんだって』
『そんな気がするよ。だって、ここの南風は、とっても心地よい初夏の風だもの』

　誰かの夢。その誰かに、僕は含まれていないと思う。
　……けれど、ここには、孤児院もなければ、院長先生も居ない。煩わしい通信も、心地よい戦場もない。縛り付けるものは何一つ存在しない。

　みんなは、どうするのだろう。どうしているのだろう。
　……みんなの夢は、ここで叶うものなのだろうか。

　もし、そうなのであれば、それは幸せなことだと思う。この世界は、僕らがいた世界よりも静かで、だからこそ優しいのかもしれない、とも。……誰かが満足そうな姿を見られれば、僕は満足だと、そう思っていたから。

　けれど、僕は帰らなくてはならない。少なくとも……姉さんと共に居なければならない。
　ぐらぐらと、頭が揺れる。……たとえ、元の世界にある、“クリスタル・クォーツ”が、姉さんでないとしても。……この錆びついた機体が、“クリスタル・クォーツ”なのだとしても。“少なくとも姉さんだと思い込める”ものと共に――

「――僕は、何を考えてるんだ」

　ふるふる、と頭を振る。風で髪が傷んだのか、いつもより硬い気がする。それが錆びついた翼を連想させて、嫌な気持ちになる。
　風は塩辛く、喉にまで侵入してくるようで。

　ひどく、喉が渇くと、そう思った。

　歌を歌う。空を踊る。軽く、羽よりも、雲よりも軽く。鏡像と共に、回る。
　余計なことは何もない。きっと“無”には程遠いけれど、それでも、無我夢中になれた。
　息を吸う。吐く。呼吸が喉に掛かって、咳き込む。酸素が薄いのだろう。だとしても、ここから離れたくない。また咳き込む。くるり、と回って――

　――くらり、と、視界が揺れた。

　それは一瞬で、永遠だった。鏡が割れて、そこに映る全てが台無しになってしまうような感覚だった。今も過去も未来もすべてがばらばらになってこぼれ落ちて、元の一つには戻らないような、そんな気がした。

　頭の中を掻き回されるような目眩が解けて、ぼんやりと僕の目に写像が映し出されたとき、そこは、変わり果てた世界だった。

　全てが錆び果てて、赤茶けた世界。鉄と潮の臭いがする。僕の身体を撫でた潮風は、同じように世界を撫でて、その軌跡に赤錆を残す。収まったはずなのに、頭がぐらぐらする。

　目の前には、姉さんがいる。

　姉さんが、いた。

　この世界と同じように錆びて、朽ちて、成れ果てて、翼を失った姉さんが。

「クレア、姉さん……」

　かすれた声。喉は渇ききっている。それでも音声認識でハッチは開く。心だけが現実から切り離されたように、身体がゆらゆらと動いていた。
　乗り込む。コックピットには、“thank you for yourと、合成された音声が響く。震える手で、操作を開始する。

　……ぎし、ぎし。　軋む音がする。

　それは姉さんの翼から聞こえる。それは僕の心臓から聞こえる。それでも姉さんは羽ばたいて、飛ぼうとしている。

　武装はない。飛ぶための飛行推進装置《つばさ》も、歌うための音響装置《こえ》も、なにもかもが姉さんに足りなかった。
　それでも、姉さんは飛ぼうとしている。大空へ、羽ばたいて、雲の上の遊び場へ飛び出そうとしている。けれど、身体は動かなくて、次第に声も聞こえなくなって、笑顔が少なくなって。

　まるで、“お誕生日”の近くみたいだ。

「動いて……動いてよ、姉さん。いっしょに、あそぼうよ……」

　必死にコンソールを叩いても、姉さんは動かない。無機質なエラー音声が返る。そこには感情がない。心がない。なにもない。

　なにもない。

　なにもない。なにもない。なにもない。なにもない。なにもない。何も、何も何も何も。



　なんにも、無い。



「どうして、ぼくをおいてくの……」


　息が詰まって、咳き込んで。止まらなくて。呼吸しようとしても出来なくて。視界の端に涙が滲む。


　これは、姉さんだ。そのはずだ。機械になって僕を守ってくれている。そのはずだ。
　けれど、姉さんはもっと輝いていた。姉さんはもっと優しい声をしていた。僕の手を握ってくれた。こんなコンソールや操縦棺なんかで動かなかった。いくら言っても聞いてくれなくて、強引で、自由で、無邪気で、けれど優しくて、小さな子どもみたいなのに大人で、やわらかくて。
　じゃあこれは、いったいなんなんだろう。
　錆びついて動かない、輝きの失われた、固く濁る、僕が搭乗し操作する“これ”は。

　クレア姉さんは、どこへいってしまったのだろう。
　クレア姉さんは、どうして、ぼくのそばに、いないのだろう。



　一度、認識してしまえば、堰き止めていたものは止まらなくなって。
　止まらない咳の代わりに、どうしようもない寂しさが、涙になって流れ出した。

―――――

「ごきげんよう、さようなら。世界は、滅びました。
　皆さま、最愛のひとと、最後の時を過ごしてください」


「ああ、こんなことなら……ザザザッ…………最後に、最後に望むとすれば、全てを……」



「全てを最初からやり直して、次は失敗しないように……」


―――――




　どのぐらい、そうしていただろうか。涙が枯れて、潮風に慣れるぐらいの時間が経った頃。

　ひとりの女性が、そばに立っていた。

　彼女はカザミサ、と名乗り、僕を誘った。“この世界から脱出することを考えよう”と。

　大戦争によって滅びた世界。ボロボロになって、放棄された世界。

　“旅をしよう”といざなうその言葉へ何か返す気力もなく、僕はただ、ぼうとして聞いていた。

「せかい……」

　ぽつり、と呟く。“滅びる前の世界”と、カザミサは言った。それが僕たちが居た世界なのだろうか。それとも、また別の世界なのだろうか。
　……言葉を咀嚼するうち、すこしずつ、頭が働くようになってきた。
　
「……そっか。……せかいが、ちがうんだ」

　だから、姉さんが居ないんだ。ほんとうのクレア姉さんは、元の世界に居るんだ。

　姉さんが僕を置いていったんじゃない。僕が、姉さんを置いていってしまったんだ。

　なら。

「……とりもど、さなきゃ」

　あの輝きを、あの優しさを、あの眩さを。青空のような燦めきを。風のような自由を。

　操縦桿を握ると、軋んだ翼はそのままに、機体は地を這い出した。
　潮風の方へ、僕は進んだ。

　不鮮明。不透明。不自由と、自由。
　形のない枷が嵌められていると、感覚だけが伝える。

　僕達は運命が決まっている。それは流れの早い川のようで、僕達は周囲の何もわからないまま、必死になって溺れている。

　グレムリンの覚醒。新しいパーツ。政治的陰謀。テイマーズケイジ。残像。完全。不完全。

　僕には何もわからないままだ。……きっと、きちんと考えれば、形が見えるのかもしれないけれど。
　見えたところで、僕がそれをどうにか出来るわけでもない。きっと決断は近いけれど、そんなものは関係ない。

　『わからない』ことは、考え方によっては一つの救いになる。無知は罪だと本で読んだ。けれど、無知であるが故の強さもある。

「……どうでもいいし、わからない。……ただ、僕が思うから、こうしている」

　“心のままに動け”と、心臓が脈打つ。それは教えに反する行為で、けれど、どれだけ抑えても言葉になり、僕の身体を動かす。
　それが、たまらなく苦しい。

　姉さんの翼を見る。ガラスのように透き通った、きれいな翼。陽の光に照らされて、反射して、輝いている。
　目を細める。その眩しさには覚えがある。手を差し伸べて遊びに誘う姉さんが、纏う光だった。

『レンゼ、ほら、いきましょう？　きっと、わたしの想像も出来ないような体験が待ってるわ！』

　……僕はいつも、手を引かれて、読んでいた分厚い本をおいて、ぜえぜえ息を上げながら、ついていく。



　ああ、そうだ。きっとこれは、本と同じだ。

　ぼくにとって大切なものだけど、動き回るのには邪魔で、気付けばどこかへ置いてしまう……重荷だ。

　色んなものを削ぎ落として、身軽に、軽快に、心地よく。あの空へ向かって飛ぼう。
　歌を歌いながら、くるくると身体を動かして。あの時だけは、何も考えず笑えたのだから。

　重荷を外す。回路をパーツに変換する。鈍く重い物は外して、眩く軽いものへ。



　全てを置き去りにした戦場の空では、僕らは二人きり。

　翼だけが、透明に、鮮明に、輝いている。

　咳が多くなった。通信が煩く鳴り響く。
　姉さんは相変わらずボロボロになって、僕を守ってくれる。

　強くならなくては。共に在らなくてはならない。もう二度と、あの日みたいな寂しい想いをしないように。

　飛んでいってしまう。何処かへ行ってしまう。僕はずっとその手を引いて、邪魔ばかりしてた。けれどそれは、ある日無駄だとわかった。
　みんなみんな、どれだけ引き止めても、僕をおいて何処かへ行ってしまう。

　付いていくことが出来ないのなら。縛り付けるのが嫌ならば。せめて背中を押して、飛び立つ為のとまり木になりたかった。
　誰かが僕のせいで飛べないのならば、そして僕が変われないのなら。この手で、“誰か”をもっと大きく。僕のことなんか気にしなくても住むように、大きく強く変えてあげられれば。

「けっほ、ごほっ……」

　胸が苦しくなって咳をする。抑える為に手を当てる。

　抑えた左の手のひらが、真っ赤に染まって濡れていた。

　墜ちる、墜ちる、墜ちてしまう。翼はもがれ、煙を上げながら、縛られた地面へ叩きつけられる。
　一時的に撤退して、整備をすればそれは治る。けれど……僕はそんな姿を見たくはなかった。心がぐちゃぐちゃになって、自己嫌悪と喪失感で泣きそうになる。

　僕を守るために、翼が欠ける姉さんの姿は、嫌なことを思い出させる。

　僕らはこの戦場で、誰にも縛られることなく、自由に飛べるはずだ。空が塞がれたテラリウムとは違って、本当に自由に。
　……“墜ちる”なんて、駄目だ。……縛り付けられた見えない鎖が、姉さんのことを引き戻しているようで。……僕を庇って姉さんが、また何処かへ消えてしまいそうで。

「……駄目だよ。……墜ちるなんて、駄目だ」

　大空に舞う鳥は、とまり木へ移るだけだ。無様に墜落するのは、姉さんの望んだ姿ではない。
　ボロボロの姉さんの装甲《はだ》を撫でる。鳴り響く通信も、大人の都合も、何もかも僕にはどうでもいい。ただ。

「より強く、大きく……」

　近づけなければ。姉さんが語った、大きな翼へ。

　それが、仮初の自由で出来る、唯一の抵抗だ。

　歌が聞こえる。戦場に、火薬と鉄屑が零れ落ちていく。それすらも舞台装置のように、カーテンコールは鳴り止まない。
　手を引かれて共に踊った時のように、抱きしめられて眠った時のように、嬉しさと穏やかさが僕の心の中に落ちている。

　嗚呼。……こんなことを感じてはいけない。浮ついた気持ちを無くして、頭も心もからっぽにしなきゃいけない。

　通信が聞こえる。“不死身の生還”に興味は無かった。僕達のことは、上の子たちが守ってくれているのだから、当然だと思った。

　『永遠に引き延ばされた時空の中を、無限に戦い続ける運命にある』、と、雇い主が言った。……本当にそうならいいのに、と、僕は思った。

　いつだって物語には終わりがある。お誕生日のケーキが、すぐになくなってしまうみたいに、この穏やかな幸せも無くなってしまうんだろうと思う。そして、それが正しいことなんだ。

　けれど。……ずっとクレア姉さんと一緒に、この空を飛び回れたら。


「……けほっ、こほ」

　胸の上のあたりが熱を持って、何だか息苦しくなって咳をした。そんなことを考えてはいけない。
　ふぅ、と息を吐いて目を閉じると、水晶の歌声が聞こえた。

　空は広い。手を広げても、届かないぐらい。
　様々な通信があった。大体は、院長先生から説明されていたことではあった。“未識別機動体の掃討”。それが、僕らがやるべきこと。上の子たちと一緒に、駆ける目的。
　……僕らは、“近づく”為に、戦わなきゃいけない。汚れを落とす為、“機械体”へ至る為。

　だから、本当は、こんなことを思ってはいけない。
　……機械音声でも、何だとしても、クレア姉さんは僕へ声を掛けてくれた。共に戦って、空を舞って、……ずっと一緒に居た頃みたいに、手を引いてくれた。
　……楽しかった。大空へ翼を広げるのも、遊ぶように戦うのも。それが、孤児院の皆と一緒なら、なおさら。

　守られている、守っている。それを感じて……幸せだって、思う。もっと力になりたい、って思う。

　これは“欲望”で、“汚れ”だ。これを無くす為に、僕らは戦わなきゃいけない。じゃないと、院長先生に怒られて……“お手入れ”が必要になってしまう。
　痛いも、苦しいも、辛いも、無くすのは簡単だと思っていたけど。……嬉しいや、楽しいや、幸せを無くすのは、とても、難しい。

　……でも、頑張らないと。本も沢山読んで勉強した。姉さんが一緒に居てくれる。だから。

　鳥になれた姉さんのように、僕もいつかは、そうならなくては。


―――
「レンゼ、あなたは頭がいいから、きっと大丈夫よ。
　……わたしみたいに、出来損ないじゃあないもの」

　姉さんが悲しそうに、花弁へ触れるように優しく、僕に触れる。……その感触を、今でも覚えている。

「……それまでは、わたしが、守ってあげるわ。
　だから……大丈夫。安心していいの」

　撫ぜられた頬が暖かくて、抱きしめられた体は力が抜けて。
　姉さんはいつだって、優しい香りがした。



　

　木々が並ぶ庭に、僕らは居た。人工的に調節された温度。ガラス張りの天井。その向こうに見える青空。

「わたしはね、大空へ羽ばたくような、鳥のようになりたいの」

　姉さんはくるりと回って手を広げ、テラリウムの庭園から空を見上げた。風が吹くはずもないのに、周りの葉が揺れる気がした。

「ねぇレンゼ、いつかなれるかしら？」

　ふわりと笑って覗き込んでくる姉さんからは、甘い花のような香りがした。

「……なれると思う。……応援するよ」

「わぁ、本当？ レンゼが応援してくれるなら、きっとなれるわね！ いっしょにがんばりましょう！」

　歯切れ悪く返事をしたら、姉さんは嬉しそうに、僕の手を取った。やわらかな感触。屈託のない笑み。気恥ずかしくて、気まずくて、目を逸らしたら、アルストロメリアが咲いていた。

　“こんなふうになりたい”。それは“欲望”だとわかっていたけれど、嬉しそうにする姉さんにそんなことは言えなかった。院長先生に怒られてしまうとわかっていても。



　姉さんは、体が機械へ変わっていく度に不満を零していた。もう少し細身がいい、だとか、どうせなら翼が欲しい、とか。
　それを聞かれるたび、姉さんは先生に“お手入れ”されて、叫んで、泣いて、少しずつ、心を閉ざした。
　“お誕生日”の前には、もうしゃべることも少なくて、ただ、たまに庭園で、空に向かって鈍い金属で出来た手を伸ばしていた。



　だからきっと、これで良かったのだと思った。
　目の前には、洗練されて美しい姿の、翼を持った、機械が在った。
　細身の体、広がる翼、尾羽のような剣身は、僕の目にはきらきらと輝いて見えた。

「……大空へ羽ばたく、鳥のように」

　整備士さんたちは、『この機体は“シルフ・クレスト”だ』と説明をしたけれど、それは違う。
　これは、機体じゃない。姿は変わっているけれど――

　――燦めく水晶《クリスタル・クオーツ》のクレア。僕の、姉さんだ。

　ふわりと甘い、花の香が舞った気がした。