ENo.0080　フロウ・フィンバック

目覚めた先の世界は、己が知っているものとは大きく変化していた。
まだかすかに痛む頭を片手で押さえ、口元を覆うストール越しに大きく深呼吸をする。
あの寂しくて静かすぎる世界を歩いたのは夢だったのかとも思ったが、自分の中にはっきり残っている記憶がその可能性を否定していた。

「……大丈夫。わたしはシオネ、わたしはヴォイドテイマー。わたしは空を駆ける者」

そして、父が率いる傭兵団のリーダーを務める者。
自分に小さな声で言い聞かせ、いつもともに空を駆けている愛機へと触れる。
あの世界の中では錆びついて動けなくなってしまっていた相棒だったが、いくつかのパーツを取り替えて整備すれば再び息を吹き返した。

父の帰りを待っていたシオネと団員たちの前に、一人だけで帰ってきたあの日のように。

「……前よりは自由に飛べないけれど、もう一度、空を飛ばないと」

己があの寂しい世界の中で父の声を聞いたのは、何か意味があるはずだ。
己が再びこの世界に戻ってきたのは、何か意味があるはずだ。
その意味を見つけるためにも、自分はフロウ・フィンバックとともに空へと舞い上がらなくてはならない。
そして、世界を追い込んでいる存在へ立ち向かわなくては。

（まだわたしが小さかった頃、お父さんが話してくれたライダーたちみたいに）

いつも服の下にしまっているペンダントを引っ張りだし、祈るように手の中へ握り込む。
やがて両手を離すと、再びペンダントを服の中へしまい、シオネは通信機を手にとった。

どこかで見ててね、お父さん。シオネは頑張るから。

――滅びた世界に迷い込んでから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
朝と夜がわかりづらいこの世界では、一日の時間のうち、今がどの時間なのかもわかりにくい。
あれだけ一緒に過ごし、己の手足がわりになってくれていたフロウ・フィンバックも、この滅びた世界の中では全くといっていいほど使い物にならない。
自分自身の足で外の世界を歩けるのは個人的に嬉しかったけれど、己の肺が耐えきれるかが心配だった。

（叶うなら、肺が駄目になる前にフロウ・フィンバックの中に戻りたいけれど）

それを可能にするには、まずはフロウ・フィンバックの修理を行わなくてはならない。
だが、時間が停止したようなこの世界の中では、グレムリンの整備もまともに行えなさそうだ。
となると、この滅びた世界からの脱出を先に考えたほうがいいのかもしれない。

（エストエールさんにもあまり負担をかけたくないから、できるだけ早く出口を探さないと）

そう考えた瞬間、不気味なほどに静まり返った空気の中に、何年ぶりに聞く優しい声が混ざった気がした。
弾かれたように顔を上げ、進む先を睨むようにじっと見つめる。
遠く揺れる先に、おぼろげな――ずっと会いたいと願っている姿を見たような気がした。


――お父さん、そこにいるの？

　小さな頃から、空に憧れていた。
　小さな頃から、空に生きる父の背中が眩しかった。
　かつて海を泳いでいたという生き物の姿を模して作られたグレムリンに乗って空を駆ける父。個性豊かな傭兵団をまとめ上げて、空に行く父は幼い自分にとって誇りに思えるものだった。

　しかし、いつものように空へ飛び立っていく父を見送ったある日。
　――父は、空に飛び立ったまま、帰ってこなくなった。

****

　ぱちり。目を開ける。
　見慣れた壁と家具が、まだ眠気が取り切れない視界に映る。ベッドに横たわった状態から身体を起こし、シオネは大きく欠伸をした。
　階下からは起きていた団員たちの声が聞こえてくる。どうやら、今日も朝食の席で人気のものが取り合いになっているらしい。
　いつもどおりの賑やかな朝。変わりのない日常。
　それらに安堵しながら、テイマーズ・ケイジやヴルッフ、その他の勢力から届いていたボイスメッセージをBGMがわりにして、いつもの服に袖を通す。

　無理を言って、傭兵団の仮の二代目団長になってから数日。
　最初はただ空を飛びながら父の足取りを追えたらそれでよかったはずなのに、気がついたら厄介なことに巻き込まれてしまっているように感じられる。
　仕方ないのかもしれない。傭兵は、誰かに雇われて戦うのが仕事だと父が言っていたから。

「……確かにダスト・グレムリンは強くて凛とした子たち。とても強いけれど、絶対に死なないのは過信だと思うんだけれど、な」

　小さな声で呟きながら、再生機器のボタンを押してメッセージの再生を停止する。
　形があるものは全て壊れる。絶対に死なないものなんて、無機物にも有機物にも存在しない。この世にはっきりとした形を持って存在している以上、どのようなものにもいつかは死が訪れる――それがシオネの考え方だ。
　故に、テイマーズ・ケイジ側の人間が口にしている“絶対に死なないダスト・グレムリン”というものには、首を傾げてしまう。
　どうにも、テイマーズ・ケイジは暴走しているようにしか思えない。

「まあ……私たちは、もう少し情報が集まるまで、空で歌うだけ……かな」

　首にいつも身につけている分厚いストールを巻いて、最後に父がいつも身につけていたコートを肩にかける。
　いろいろ気になることはあれど、自分たち傭兵にできることは戦うこと。戦いながら、何が起きているのかを見通すことだ。

　さあ、今日も空を駆けよう。
　空を泳いで、歌って、空で生きよう。

　空に逝く日が、訪れるまで。