ENo.0106　煙る黒曜のノッテ

遠くから波の音が聞こえてくる。
端末には「もうすぐ戻れるかも」なんてメールが来ていたが、
おれたちには興味のないことだった。

おおぜいの誰かが歩いている流れに逆らって、シエロを隣にして、
ぶらぶらと　散歩でもするように歩くことは、
思ったより気持ちのいいことだった。

「シエロは……」

「孤児院に入る前のこと、覚えてる？」
聞くつもりなんてなかったのに、勝手にことばになって滑り落ちていた。
この紅く錆びた、いまにも落ちそうな夕焼けが、おれにそうさせたのだろう。

「覚えてなければ私はこんなところにいなかったよ」
血潮のように馴染んだシエロの声が、すぐ近くから返ってくる。
「ふうん。おれも覚えてるから、そうなのかな」

おれはこんなに喋ったことはないから、
ときおりつっかえながら、ゆっくりと語った。

「おれは工場で働いてた。ちょうどこの空みたいに錆びてて、汚れていて」
「……右からいっぱい部品が流れてきて、それを左に流れるまでに組み立てなきゃいけなかった。朝から晩まで……
それより昔のことは覚えてない」

頑張って喋り終えたあとは不安が襲ってくる。
こんなの、おれらしくもない──
シエロはどう思うだろう、どんな言葉を返すだろう。
そういうことが怖かったから、いままでのおれは　シエロを殺したかったのだ。

シエロは笑った。

「ふ。……ふ、ふふ、ふは。

……君はそこで生まれたのか。……なんだ。君は、人間だったんだな」

シエロにおれが、人間だということが、ばれてしまった。

波の音が近くなっていく。
不思議と後悔は無かった。
内臓を曝け出して、シエロのひんやりした手で触られるのは、
気持ちがよかったから。



「私は、昔からずっと、私のままだった」


そうしておれは、シエロのつめたい内臓を、そっと手渡される。


「気味悪がれ、捨てられ、それでも、……死にたくはなかったから、私の体で出来る事をして」


油の混じった潮の香りが鼻をつく。


「……みっともないな、なんだか」



シエロの内臓はシエロ自身で、
もう死んでいるというのに脈動だけし続けている。
息が止まって、崩れ落ちるだけのほんのひとときを、
おなじように息が止まったおれと共有している。



「おれもずっとおれだった」

「おれ以外のなにかになったことはない。　グレムリンにも、シエロにも」

じっとシエロの顔をみつめる。

「おれはシエロになってみたかったのかもしれない」


言葉のない時間が流れて、
複雑なかおをしたシエロがそこにいた。

「……。面白い冗句だ」

「無理だよ。私達は自分にしかなれないんだよ」

「なれない、なれないんだ。なれないから、こんなとこにいる。いつまでもしがみついてる」

「もし、もしだ」
「私になれたなら、なにをする」


おれは、
「そうだね」

うなずく。
シエロのよく変わる表情を、おれが真似られるはずもない。
「おれは一度だって、やりたいことができたことがない」
それはシエロも同じことだろうと、確信に似た思いがある。
幸福な子供は、この孤児院には存在していなかった。
みなないものねだりで、ねだるのに疲れて、
おれたちはそこから動かないでいたかった。

「なれたら？」
いちばんシエロらしいことをしたい。

「絵を描く」
「キャンバスいっぱいに……」

空をあおぐ。

「こんなかんじの、やつを。
シエロなら描けるだろ」

シエロはしばらく黙っていた。
風がふいて、蒼い髪が靡いているのを、
おれはずっと、熱におかされたように見つめている。
もうずいぶん長い間があって、
シエロはやっと口をひらいた。

「教えてやるよ、描き方」



それは意外で、
それは当然のことでもあって、
おれにそんな選択肢があることを、
おれは知らなかった。
いや、選びたくなかった。
──いままでの話だ。

クロウドジェイム孤児院の、煙る黒曜のノッテは死んでいる。
おそらくもう、こうなる前から。ずっとずっと昔に。
産声をあげ忘れた体だけが、ずっと途方に暮れてさ迷っていた。

さ迷うことをやめて、迷子のまま終わらせることを決めてから
増える選択肢もあるということを
おれはいま、知ったのだった。

「……紙がない」
「絵の具もないよ、シエロ。」
「おれはいままで、そんなことを、やったこともないし……」

その選択肢の扉の前で、おれは恐怖した。

「…………」

そうだ、

おれはもう、終わるのだった。


「……教えて、シエロ」

どれだけ歩いただろう。
靴の爪先が、つめたくもない水に触れる。
生ぬるく、
体液に似て、
すこしもいやな気持ちにはならない。

「……うん」


「一歩前進だな」

シエロの言葉の遠くで、
知らないカカシの叫び声が聞こえた。





「君よ、立ち止まるな！　君よ、そのまま進め！！　この場所には何もない……」



「いや、何かがある場所などない！　到達せよ！　君の場所まで！　それこそが、君の辿り着く場所なのだ！」

赤い。
赤い。赤い。赤い。
その世界は、なにもかも赤かった。
おれのきょうだい──グレムリンは錆びて、動かない。
せんせいはこれこそが完璧な姿だといったのに、死からは逃れられなかったような形をしていた。
なにもかも異常で、そこに流れ着いた人々は、おどろいて 途方に暮れて、あるいは 取りこぼしてはいけない何かを見つけるために、歩いていた。
おれもその一人だ。
おれはシエロを探していた。

戦場は広い。
『僚機』なんて言っても、おなじエリアにいるだけだ。おれの仕事は前線に立つことで、シエロの仕事は他の同僚たちの仕事を、うまくいくようにサポートすること。
おれたちはいつでも 離ればなれだった。
おれがいつでも、あいつの隣を目指したのだ。

鉄錆の世界で、
蒼色を見つけることはそう難しいことではなかった。
どこでも、蒼いその色を見つけることができた。

もう少しだけ その色がくすんでいたなら、
おれはどこだろうと シエロを見つけることはなかった。

きっと、そのほうがよかった。

「……シエロ」

蒼い髪を絵の具のように広げたシエロは、そこに倒れている。
こいつの寝顔を見るのは久しぶりかもしれない。
おれたちは一番近くで眠っていたのに、お互いの寝顔を覗くこともしなかった。

「シエロ……」

シエロは起きない。
おれはつまり、なんでおれが寝顔を見てみようという気を起こさなかったのか、いまはっきり理解した。

無防備なシエロがそこに転がっている。
ここに孤児院はない。
せんせいはいない。
きょうだいはいない。
そうしたら──やることはひとつだけじゃないか。

グローブを外す。
がさがさして、汗でしめった、
おのれの指で シエロの首に 触れた。
おれの肌は少し濃い色だから、
シエロがいやなくらい白く、蒼く見えた。
シエロは瞼をかたく閉じて、
息はしているはずなのに 身動ぎひとつしない。
おれはおもいきり力を籠めて、
その彫像みたいな体が、苦しみにもがき喘ぐのを想像していた。

けれど、馬鹿みたいな現実で、
おれができたことは
シエロの首を、撫でるような温度で 包んでいるだけだった。

シエロの瞼が痙攣するように動き、
その蒼い目がおれをとらえるまで、
おれは手を離すことができなかった。

「……首にゴミがついてた」
もっとマシな言い訳があったけど、
そこまで取り繕うのは面倒だったから おれはそれ以上を言うことをできなかった。

シエロが唇を噛む。
泣いたような顔をする。

「……ひどいよ」

「ひどいよ、ノッテ」

「……」
その、シエロの言葉を聞いて、おれは。
まるで強く揺さぶられたみたいに、何も考えられなくなった。

謝ればよかったのか、
殴ればよかったのか、
無視すればよかったのか、
そもそもシエロを、探しにいかなければ……

いつのまにか唇は乾いていて、
自分でも驚くほど、疲れの乗った声が漏れる。

「シエロ、立って。行こう」

「世界が終わったんだ」

はじめの一歩を踏み出すというときに、おれたちはもう死にかけている。

「終わった。世界が。……世界が、終わった」

うわ言を言う亡霊のようなくちぶりで、シエロは呟いた。

顔は白く青ざめているのに、瞳だけが熱を持っていく。

「……なんで、私達は、終わってない」

なにか流れた、それは、涙だ。

「どこに。なんで」

「どこに行けっていうんだよ。なんで生きなくちゃいけないんだよ」

熱がどんどん昇っていく。身を起こすこともしないまま。

「ッ、ノッテ、言ってみろよ！」



「もう、私達には。なにもないんだよ！」


シエロは俺に、怒っていた。

あるいは、

俺以外のすべてに。



シエロはおれに答えを求めている。
おれはそれが恐ろしい。
それは禁じられていることだ。
自分の考えを──思考を 持つことなんて。
でも、おれが歩くことを選択したということは、
もう既におれは、間違いを犯しているのだ。
もう、これからは、
間違いを犯し続けることでしか、
歩いていくことができない。

翼は……空を飛ぶためのきょうだいは、そこで死んでいるのだから。

「……おれは」

「おれは、怖い」
「世界は終わって、終わった世界を押し退けて、始まった世界が息をしはじめる。おれたちを置いて……」

自分が何を言っているかわからない。目眩がしている。ずっと。
ずっと。
ずっとおれはそうだった。
ずっとおれたちはそうだった。
なにも、あたらしいことをはじめようとしてる訳じゃない。
これはいつも通りだ。

「おれはもう新しくはじめる気はない」

「シエロ。

おれといっしょに死のう」

おれはずっとそれを望んでいて、
それを叶えるためにもっとマシな場所に行きたい、それだけだった。






シエロは微笑んで、

おれがいちばん欲しい返事をくれた。

おれはシエロを持て余している。
ぶよぶよに肥えた箇所は、切除しなくてはいけない。
それは当然のことで、おれはそうしなければいけないと決意した。
したけれど、おれは手頃な刃物を持っていなかった。
あの時振るった拳では、望んだように変わることがないことを知っていた。
ごりごり、ごりごりと、
シエロがひたすらにキャンバスに何かを塗りたくっている。
黒い。
それはおれの色に似ていて、でも描かれつつあるそれには、
頭がないのだった。

おれはそれを首を伸ばして、寝台の上から見つめている。
ごりごりと、シエロがシエロを破壊する音を聞きながら、
おれはシエロをどうすればうまく破壊できるだろうということを考えている。
ごりごり。
シエロの手が黒く染まっている。
シエロはなり振り構わない。
おれも、それに倣うべきだと思った。

思った時に、口から、その言葉がこぼれ出た。

「素敵だね」

シエロの自傷は止まったようだった。
初めて自分の意思で手に取った刃物は、
持ち手すらも刃でできていた。
ばくばくと心臓が音を立てる。
汗が噴き出し、目の前がぐらつく。
なんとか足を踏み出し
ベッドから抜け出て
自分たちの部屋から逃げ出そうとしたときに、シエロの言葉が背中を追いかける。

「お前の言葉は意味なんかない」

いま、おれが1番欲しかった言葉だ。

食事の時間は、すこしおもしろい。
俺たち孤児は一列に並んで、配給の列に加わる。
トレイの中にブロック状の栄養が、グラムを計ってだいたいの量、与えられる。
そこまでのシステムは、滞りなく行われる。
まるで工場かなにかのようだ、と思う。
昔働いていたことがあるが、あれは悪くはなかった。
私語はやりすぎれば『お手入れ』の対象になるが、戦場から生き残ったという安心感が、こどもたちの口数を多くさせる。
ざわざわと波うつような喧騒の中でおれは、
食堂の色とりどりのこどもたちの中から、ひときわ蒼い子供を探していた。


「……シエロ」
シエロはあまり食料に手をつけていないようだった。
隣に席がなかったので、空いている椅子を持ってきて無理矢理座る。
「……また君か」
蒼が濁っている。
あまり、おもしろくないように感じた。
それはシエロも同じだったようだ。
「そんなに、私の何が気になるっていうんだ」
「なにが？」
問われているなら答えたほうがいいだろう。
口を開こうとするおれを、それをもとめたはずのシエロが遮る。
「いや、違う、違うんだ。

君はそんなものじゃない。分かってるんだよ……、」
わけがわからない。
「そうなんだろ？ そう言ってくれよ、私をこれ以上……」
シエロは何がしたいんだ？
絵を描いている間は、少なくとも絵が描きたいということがわかる。
こんな寝言のようなことを言われ続けられたら、
おれはますますシエロのことがわからなくなってしまうだろう。
顔を覆ってしまったシエロを見て、またひとつ濁った、と思った。
シエロの描いたあの蒼い絵から、シエロが遠くなっていく。

不愉快だった。


「あんまり調子、よくないの？
……そんなんじゃ」
ただ、
「『あれ』のようにはなれないよ」
事実を伝えただけのつもりだ。
記憶の蒼い絵と、目の前の蒼を見比べながら。

色が揺れる。

「、私はッ、私はなぁ！」


「あんなものに、あんなものになりたくなんて、ないんだよお！」



ぐらりと景色が変わって、雷のような痛みが顔を貫いた。
右のほうの視界が赤く染まった。シエロが必死な顔をしているのが辛うじてわかった。
それはおもしろくはあったけれど、胸を焦がすような不快さは消えない。
揺れる。
揺れる。
殴られているな、と思う。歯が揺れて、シエロの拳から血が吹き出す。
鉄錆の匂いがする。どこか遠くで、こどもが先生を呼びにいく声がしている。


「し、えろ」

「喋るな！ もう喋るな、お前は！ そんなもの、お前には必要ないだろうが！」

シエロはまだ必死な顔をして、倒れたおれの上に重なって、拳を振りかざす。
折れそうな、華奢な、
絵を描くための腕を。


そうと気がついた時、おれはもう自分を止めることができなかった。

シエロの顔に、俺の拳が吸い込まれていった。
蒼い髪が反動で散らばる。
まるでシエロが操る筆のように。
二発目も、三発目も、同じ場所に。
その度に蒼の絵具が散らばっていく。
息が上がる。
決定的におかしな気持ちになっていく。
これはシエロのせいだ。
おれはこんな気持ちになったことはなかった。

おれにシエロは必要ない。
だから、早く、死んでくれ。
そうしていられたのはほんの少しの間だけだった。
先生に止められてしまったから、
おれたちはお互いを殺し損ねてしまった。

シエロのベッドの下には、地層のように積もった紙が盛られている。
毎日のようにそれをおれは確認して、新しい層ができていることに気付いた。
この前描いていた絵だ。完成したのか。

青い。

シエロの描く絵は、青い。基本的には。
時々赤や黒もあるが、これは青かった。

じっと眺めていると、二段ベッドの上から声が降ってくる。

青い。

シエロの長い髪が、こちらに向かって垂れていた。

「何に見える？」

おれがあんまりシエロの絵を見るから、一度 絵が欲しいのか と聞かれたことがある。
おれはよくわからなかったので、わからない、と答えた。
それからシエロには何も言われなかったので、こういった質問は少しひさしぶりのように思える。

(機嫌がいいのかな)
こういう混じり気のない青い絵を描くときは、シエロはなんとなく、よく笑ったりするような気がするし。

おれは少し考えて、

「シエロに見える」

そのままを伝えてみた。

シエロは複雑な顔をしていた。
せっかくの良い気持ちを、損ねてしまったかもしれない。
おれにはどうでもいいことだけど。

しばらくして絞り出すように漏れた言葉は、
煙を上げるグレムリンの悲鳴のようだった。



「……こんなもんが、こんなものが私であるもんか」


「あれが私なら、私は、……私のなりそこないだ」



青が揺れる。




おれはなんて単純なことを、シエロは悩んでいるのだろうとおもった。



「……そう」



「じゃあ、これになれるように頑張ろうよ。シエロ。おれは隣で見てるから」



シエロはおれの寝床の下で、降り積もりながら、
羽化の時を待っている。

シエロが部屋で絵を描いている。
別に、直接見たわけではないけど。
部屋に閉じこもってる時は、そういうことだ。

一回だけ、あいつが描いてる最中を、見たことがある。
その時、シエロが絵を描いていることを知った。
シエロは驚いていたけど（たぶん）おれが見ているのを嫌がらなかった（……たぶん）

青い髪と青い服に絵具が散った、その色がわすれられない。
一体どこのどいつが、絵具なんてひどいものをこの孤児院に置いていったのだろう。

絵がきれいだったかどうかは、いまいちわからない。
とにかくめちゃくちゃにしてやりたい気分になった。
あの青い髪を引っ張って、腕をひねって、細い首に触りたい。

ひどく気持ちが悪くなって、トイレでなんだかよくわからないものを出した。





おれのからだからこんなわけのわからないものが出てくることに、おどろいた。

文字とか、そういうのは、覚えなくてもいい。
せんせいが教えてくれるけど、おれには必要のないものだ。
こういうふうに声にだしてつぶやけば、グレムリンが聞いて記録にとってくれる。
それが……　必要かどうかは、わかんないけど。
なにもしていないで、黙って、ひとのいうことをよく聞いて、
何も考えないでいれば、この世界は安心でいられる。

おれたちが寝泊まりしているクロウドジェイム孤児院では、
おれみたいに、ぼーっとして何も考えてないやつのほうが『良い』らしい。
そうじゃないのは、よくない。
絵を描いたりするのは、たぶん、とびきりよくない。

同室のシエロは絵を描く。　うまいとか、下手とかは、おれにはよくわかんない。
それを考えるのはおっくうだ。　でも、それをするシエロ自体は、なんか、おもしろいと思う。
わざわざ生きづらいほうを選ぶ意味が、おれにはわかんないから、
シエロの見ている世界は、シエロの絵みたいに、おれの理解の外にあるんだろう。

シエロのやっていることはバカだけど、
シエロはなんだかおれよりいろんなことを知ってるみたいに見えた。
おれはなにも知らなくていいし、なにも考えなくたっていいし、
そっちのほうが楽だけど、
シエロをもう少し隣で、長く見ていたいと思う。
シエロのうでが無くなって、　無に近づいたとき、
どうするのかとシエロに昨夜聞いてみた。
シエロはそれでも絵を描くと言った。
おれは興味がある。
シエロが腕をとりあげられたとき、
描かれた絵を、おれはまだ面白いとおもうかどうか、ということについて。
もし、面白くなかったら、
シエロに興味がなくなったら、

その時おれは、よくないものがなくなる。安心する。

おれは、早く、世界を安全で、安心なものにしたい。
その時を待っている。