ENo.0120　小瀬青一郎

ウィックマンを読み返していた。
頭はしらふだった。
酒は抜けていた。
久しぶりだなと思った。
ひでえ誤訳もあった。
誤字もあった。
書けていないところもあった。
本をつくってから著者や訳者にあそこはダメだったねなんて言われることは多かった。
そんなこと言われたってなあと思った。
でもどれだけ注意してつくっても本から瑕はなくならない。
本は瑕だらけで不完全だ。はじめてつくった本ならなおさらだ。
訳した本を読み返すと本当に直したいところだらけだった。
そりゃあ著者も直したくなるよなと思った。
二版で直しましょう。
というのが俺たちの決まり文句だった。
でも二版が出たためしはなかった。
俺たちの本はそういう本だった。
売れるのは瀬島先生のような本だった。
瀬島先生は本の出来にあれこれ言わなかった。
重版のある人だったが直すのは時系列の整理と単なる誤字だけだった。
バージョンはひとつであるべきだ
というのが瀬島先生の考えだった。
本はその形で固められたものだと。
ウィックマンは売れなかった。
在庫もまだあった。
奇妙なことに予算もあった。
しらふで読み返して、
ひどい出来だった。
初版の帯を読み返した。
自分で書いた帯だった。
「終えられていない地点から始めなくてはならない。
　今一度、そしていつの時も」
それはウィックマンが『孤立と表象』の前書きに付していた言葉だった。
前書きはこう続く。
「しかし哲学の問いにおいて、終えられた地点は存在しない。
　ゆえに私たちは常に既にあらゆる名指された切断面を規定し直すだろう」
あらゆる名指された切断面を規定し直すだろう。
硬すぎる訳語だ。
これは直したいなと思った。
常に既に、という語彙にも違和感があった。
原文を読み返すと、ウィックマンはそんなことを書いていやしなかった。
常に、とだけある。
「常に既に」はフランス思想の語彙だ。
こんなクリシェをウィックマンは使わない。
彼はもっと古風な言葉づかいで疎外論と認識論を捉え直す。
予測変換だな、と思った。
誤字は校正会社に直してもらったが、
訳文の検討は自前でやった。
それが仇になった。
これは必ず直さないとならない。
ウィックマンはそうは言っていないのだから。
読めば読むほど、なんて本を出しちまったんだと思う。
ウィックマンは本の形に固められたが、
この本はあんまりに途上にある。
二版で直しましょうと俺の中の編集者が言った。
二版はいつ出るんだよと俺の中の訳者が笑った。
すぐ作れますよと俺の中の誰かが言った。
誰がゴーサインを出すんだと思ったが、
それは俺だった。
販売計画も出版企画も俺のものだった。
著者の許可取りも訳者のリスケも俺一人のものだった。
　　終えられていない地点から始めなくてはならない。
　　今一度、そしていつの時も。
本は売れないかもしれないが本をつくることはできた
それで立ち行かなくて死んでいくものは多くあった。
この夕闇国では本はまだ生きていた。
読まれないものとして、おそらくはただのオーナメントとして。
しかし紙の本は残るものだった。
ウィトゲンシュタインは塹壕で論理哲学論考の原稿を書いたんですよと
先日来た客にしゃべったお決まりの話を思い出す。
刷って売れさえすればそれは残る。
それなら売れるだけいいのかもしれない。
たとえゴリラにでもな。
机の上には瓶に入った砂糖みたいな白い塊があり
名前をルヴナンという。
revenantだとしたらそれは亡霊であり帰ってくるものの名前だった。
フランス語に似た注意書きの読解がうまくいっているのなら、
そこには内臓が壊死すると書いてあった。
まさか壊死とは思えないからきっと負担をかけるくらいのことだろう。
幻覚剤と堂々と書いてある。
これは間違いないだろう。
戦後しばらくはアンフェタミン系の薬物は普通に売られていたらしいし
サルトルがコリドランを2毎日5錠かじりながら弁証法的理性批判を書いたのは有名な話だ（毎日じゃなかったか？）。
ルヴナン。
それはデリダの亡霊論の根っこをなす言葉だった。
　　私は、亡霊 revenantと炎と灰についてお話ししようと思う。（『精神について』）
再来がそこにはある。
そうして俺はまた始めるんだろうなと思う。夕闇国で。夕闇のなかにあるかもしれないがここにはまだ夜が来ない。輪転機は回るだろう。リボルバーのようにそれは回帰する。装弾された一枚一枚のゲラが的を殺し損ねて地に落ちる。射撃はそういうものだ。それでも殺そうとしたのなら殺しを試み続けなくちゃならない。殺し損ねた場面から。今一度、そしていつの時もだ。